中央区

11 三ノ宮駅 高架銃痕 
旧そごう東南側(米軍イーストキャンプ跡)
場所 JR三ノ宮駅すぐ

 1945年6月5日朝三宮駅周辺も激しい空襲で「駅構内の地下壕に避難したモノ200名あまり、窒息死を覚悟した頃ようやく空襲の轟音が止み、外に出てみると、構内は負傷者の阿鼻叫喚が聞こえ、手や足がちぎれ、体中焼けただれた人、腹部がえぐられた人など…駅前一帯は見る限り焼き尽くされ、…市電が鉄枠のみの残骸で3,4台」と宮田實さんは書いています。
 6月以降は制空権が無くなり、アメリカ軍戦闘機の機銃掃射が増え、JR三宮駅南側高架には機銃掃射の銃弾痕が残っています。
 1945年9月25日最初の米軍自動車部隊が700人三宮駅前広場に集まったと言います。このあと、東南一帯の焼野が原にアメリカ軍兵舎が建てられ、白人専用のイーストキャンプに約2万人が駐屯しました。
 また、戦争孤児も多く三宮駅周辺に集まりました。野坂昭如さんの「火垂るの墓」の清太はここで最期を迎えます。戦後は元町駅神戸駅まで闇市が広がりました。当時の阪神電車につながる地下道へのトンネルが、ガリバートンネルとして駅前南側歩道に1か所だけ残っています。三宮駅再開発のため撤去されると言われています。(2023年夏)。
三宮駅高架銃弾痕
米軍イーストキャンプ跡
三宮駅前ガリバートンネル (地下へ行く入口)