今は丸山総合療育センターになっているところに、戦争前は丸山遊園があり、多くの人が桜を楽しみに来ていたと言われます。
戦争中は川崎造船所の大阪俘虜収容所川崎分所がありました。旧葺合区熊内町の捕虜病院や脇の浜捕虜収容所が空襲にあったこともあり、一時期は3棟捕虜収容所が建てられ、約600人が収容されていたそうです。神戸電鉄高取道駅(現在の丸山駅)から湊川まで電車に乗り、湊川から新開地本通りを兵庫の川崎造船所まで歩かされ、働いたといいます。「(オーストラリア兵の捕虜収容所が)丸山遊園地の広場に建てられていた。オーストラリア兵が運動したり、神戸電鉄に乗って帰ってくるのをよく見かけたものです。住民は兵隊には友好的でしたね。住民がパンをあげたりしたら、おなかをすかしていた兵隊たちは大変喜んでいました。ただ、日本人が捨てたたばこの吸い殻を拾って吸っていた風景を見て、涙が出てきました。戦争の残酷さを痛感しました。」「オーストラリア兵を見かけたのは私が中学2年の時でした。300人ぐらいいたのではないですか。川崎造船所に働きに行っていたようです。3人の兵隊が脱走事件を起こしたことを覚えています。」と2010年発行の丸山地区住民自治協議会創立60周年記念誌にありました。また、ジョン・レインさんは「夏が再びやってくる」という本の中で、当時この収容所にいたことを証言されています。横山ノックさんも、2006年のラジオ関西の番組の中で、このオーストラリア兵の捕虜のことを語っています。。 |