3 | 六甲ケーブル |
場所 | 高羽字西山8-2 一ケ谷 |
「摩耶ケーブル」の少し後に1932年「六甲ケーブル」が作られました。こちらも戦争中に「金属類回収令」で解体されることが決まりした。六甲登山ロープウエーは真っ先に解体され、ロープまで回収され、金属供出されました。ところが六甲ケーブルは、人手不足で解体作業が遅れ、回収される前に戦争が終わったので、戦後すぐに(10日後には)復活して、アメリカ軍の軍人が六甲山のゴルフ場に行くために使われました。 「摩耶ケーブル」や「六甲ケーブル」、また「表六甲ドライブウェイ」を作るのに、実は多くの朝鮮人が働いていました。1937年、工事現場に住みながら働いていた朝鮮人家族が土砂崩れに巻き込まれ、父親と息子二人が重傷、母親は亡くなるという事故がありました。労働環境はとても悪く、1933年には待遇改善を求めて「労働争議」が起こされました。 |
六甲ケーブル山上駅 |
朝鮮人労働者も作った六甲ケーブル線路 |